2012/06
日本の物理学とアインシュタイン君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人18]


旧門司三井倶楽部
 アインシュタインが帰国前に滞在した門司の旧三井倶楽部には、宿泊して使用した3室が保存されている。12月23日から29日まで滞在し、日本の最後の1週間を謡曲・長唄・義太夫・どじょう掬いなどを鑑賞してお礼にヴァイオリンを弾き、正月用の餅つきには赤鉢巻で参加するなどして楽しんだと説明されている。

日食観測
 2012年5月21日は日本各地で金環食が観測された。東京は生憎の曇り空だったが、近くの公園には日食グラスを持った人たちが集まり、雲間から時々顔を出す金環食に歓声をあげていた。
 1915年にアインシュタインは一般相対性理論を発表し、光が重力場で変形するというニュートン力学をも否定する理論で物理学者たちを驚かせた。恒星の光が太陽の重力場で曲がるかどうかは皆既日食のときに観測される筈である。
 1919年、アフリカ西海岸にあるプリンシベ島の皆既日食観測で、ニュートンを誇りとしているイギリス観測隊が、光が太陽の近傍を通過するときに曲がることを観測した。ロンドンタイムス記事は「科学の革命」「ニュートンの理論くつがえる」の見出しで記事を書き、一般市民にセンセーションを引き起こしたといわれている。

相対性理論とアインシュタイン
 アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年であり、その後の物理学に革命的な変革をもたらした。この年は「奇跡の年」と言われ、アインシュタインは特殊相対性理論の他に光電効果とブラウン運動の論文を発表し、未解決の物理学の問題点に光明を注ぎ込んだ。この論文で博士号を取得し、更にノーベル賞を受賞したのである。
 アインシュタインは、小学校では先生から「この子は将来望みが無い」と言われ、中学では先生から邪魔者扱いされ、大学入試は失敗し、大学を卒業しても就職できないなど、凡そノーベル賞受賞者とは考えられないような経歴の持ち主である。
 大学に助手として採用されなかったアインシュタインは、卒業2年後にやっとスイスの特許局に就職し、そこで仕事の傍ら物理学の研究を続けて論文を発表した。これが特殊相対性理論であり、光が世の中で一番早い速度であり、4次元世界を示すものであった。更に1915年には一般相対性理論を発表した。
 日本では1905年(明治38年)、日露戦争に勝利して国威発揚の時期であり、物理学者のヨーロパ留学も多くなった。田中館愛橘、長岡半太郎、桑木ケ雄、本多光太郎、寺田寅彦、石原純、仁科芳雄など留学先は圧倒的にドイツが多い。

アインシュタインの来日
 雑誌社「改造」の招きでアインシュタインは1922年に来日した。フランスのマルセイユから日本郵船の北野丸に乗船し40日で神戸港に着いた。日本での歓迎ぶりを再現してみよう。
 ・改造社社長山本実彦はアインシュタイン招聘を物理学会の大御所長岡半太郎に了解を求めた。長岡は民間企業のお先棒を担ぐことを心配しながらも、帝国学士院の招待として了解する。
 ・神戸港には長岡半太郎をはじめ桑木ケ雄、石原純など多数が出迎えた。神戸港は一般市民が大勢集まって歓迎し身動きのできないほどだった。翌日の新聞報道は派手な見出しで飾られた。
 「科学界の巨人来る。知識の国際的関係を説く」(大阪朝日)、「アインシュタイン博士来る。光に力を置いた船上の土産話」(大阪毎日)、「偉大なる光の如く耀きて、学会の巨人ア博士来る。埠頭に渦巻く出迎への群」(神戸新聞)
 アインシュタインは神戸での記者会見で、来日の目的は、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の眼で見てみたいのと、科学の世界連携によって国際関係を一層善に導くこと、などと話している。当時のヨーロッパは第一次世界大戦後の混乱の時期であり、敗戦国ドイツは新しい国造りとインフレ、反ユダヤ主義の台頭でアインシュタインには住み心地の良い国ではなかった。

通俗講演会と専門家向けの特別講義
 熱狂的な歓迎に応えて、アインシュタインは一般市民対象に通俗講演会を8回も行っている。最初は慶応大学で出席者は2000人以上、特殊および一般相対性理論について話した。通訳はドイツに留学し、チューリッヒのアインシュタインの下で相対論や量子論を学んだ元東北大学教授石原純。
 彼は、前日夜にホテルを訪問して、10年間ドイツ語を話していないので、大体の原稿を作ってほしいと依頼した。これに対しアインシュタインは、「前もって原稿を作っておくと、思想が固定していけない。やはり聴衆の顔を見て講演をしたい」と断ったと云う。
 アインシュタインの滞在中、石原純は通訳として同行した。彼は歌人の顔もあり、原阿沙緒との恋愛事件で東北大学教授の職を辞し、その後は科学の啓蒙者として活躍している。
 2回目は東京神田青年会館、3回目は東北大学、4回目の名古屋国技館では2000名以上となった。その後、京都、大阪、神戸、福岡と続くが、福岡大博劇場では3000人の聴衆が集まった。講演会は当時としては高額の3円から5円の有料である。
 東京大学で行われた専門家向けの特別講義は6日間、受講者は東京大学理学部の長岡半太郎、寺田寅彦、田中館愛橘を始めとして、京都大学、東北大学、九州大学などの物理学者、理学系大学・専門学校の教授、大学院生・学生など135名であった。
 長岡半太郎はアインシュタインに感激した話を次のように記している。
 『教授が言わるるには、世の中に様々の研究に従事する人がいる。多くはこせこせした一局部と申すべきことを精細に吟味することを楽しみにしている。余は些細なることに捕らわれ、躍起することは嫌いである。其れゆえ、物理学の大綱に関する研究に従事することを考え、終に相対性理論に思い当たった。』
 学生たちとの交流も深めている。東大・東北大・京大では学生の歓迎会があり、早稲田大学では学生1万人の歓迎集会で挨拶、東京商科大学、東京音楽学校、東京女高師、東京高等工業でも歓迎集会が行われた。
 京都・奈良の観光には第三高等学校学生の西堀栄三郎が同行している。後の南極越冬隊長である。過密なスケジュールの中で京都・奈良の観光旅行を追加した費用を、西堀の実兄で織物工場主の西堀清一郎が負担したからという話だ。この他、アインシュタインは日光・箱根・宮島など「美しい日本」を見て過ごした。
 アインシュタインはホテルに戻るとヴァイオリンやピアノを弾いて和み、夕食の時に、求めに応じてヴァイオリンを披露した。気取らない、優しい、型にはまったことが嫌いな人柄であったようだ。
 科学評論家広重徹が以下に述べている。
 「一人の抽象的科学の巨匠が日本を訪れ、このように大衆から歓迎され、人々に感銘を与えたということは、このときが初めてであったし、今後もありえないであろう。日本の科学も今では欧米並みであるし、基礎科学もまた経済的、軍事的脈絡のなかに巻き込まれて、かってのように、その純粋さのゆえに高い文化的価値を享受するということは不可能であろう。1922年のアインシュタインの来日は、そういう意味で空前絶後のできごとであった」と。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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